多事想論articles

翻訳に必要なこと

 筆者は英訳や和訳をすることが時々あります。すらすらというより、あれこれ考えながら試行錯誤して苦労しながら進めることがほとんどです。筆者自身は英語圏での生活経験はありますが、正式な翻訳トレーニングを受けたことがないせいかもしれません。しかし、先日、自身の書いた和文を英訳したところ、思いのほか早く終えることができ、軽い驚きを感じました。そこで、翻訳とは筆者にとってどういうことなのか考察することにします。

 まず、なぜ二つの言語を知っていても翻訳は難しいのでしょうか?筆者の場合、モノを考える時には、いずれか一方の言語を使って考えます。日本語で習ったこと・経験したことは日本語で覚えるのですが、言い換えると、英語での経験はないに等しくなります。従って英語で表現できるようになるには、改めて英語で経験し直す、対応する表現を勉強するなど、意図的に習得する必要があるのです。

 では、日本語・英語の両言語での経験があれば、翻訳は可能になるでしょうか?翻訳は「単純に言葉を置き換えるだけ」であり、両方の言語を知っていればできると考える方は多いようです。しかし、先に述べた通り、筆者は常に一方の言語で考えており、同時に複数言語で考えることはできません。一方の言語で考えたことを他方の言語で表現するには、対応する言葉や表現に辿り着かなければなりません。それには、言語間を紐付けて対応する言葉や表現を連想する訓練を意図的に行っておく必要があります。言い換えれば、翻訳には、各言語の能力だけでなく、言語間を行き来する能力も求められるといえます。

 ここまでは翻訳者自身の経験・訓練で習得できることですが、どんなに翻訳能力を磨いても難しいケースがあります。そもそもの原文から「誰(何)が・何をした」のかが読み取れず、意味を掴めないケースです。特に日本語文には、英文には欠かせないS・V・Oが盛り込まれていないことがよくあります。盛り込まれていても主語と述語が一致しないことや、こそあど言葉が指示する言葉が見つからないこともしばしばで、お手上げになることもあります。しかし、自分自身で執筆したものについては、S・V・Oも指示語も、読み取りに悩みません。他人には分かりにくい文であったとしても、当人には明確だからです。自身が書いた文の翻訳には時間がかからない理由は、この点が一番影響していると考えます。翻訳のしやすさは「原文の明確さ」に大きく依存するのです。

 日本語の構文上、省略可能な言葉が多いためか、「日本語だから仕方がない」と言語の特性によるものと主張する書き手は多いです。明確に表現することより、言葉を省略して表現がくどくなることを避けようとする傾向も見受けられます。日本人同士ですと、不明瞭な文でも、なんとなく"雰囲気"が伝われば"伝わった"ということにしがちですし、「このぐらい分かって当たり前」とする前提も強く、受け取り手の問題にされるケースもしばしば見受けられます。しかし、厳格に考えれば、どの言語であっても読み手を悩ませる文は不適切ですし、S・V・Oの見えない「なんとなく」の文では真に意味を伝えられているとは言えません。

 近年は、外国人観光客の増加のみならず、日本で働く海外出身者も増え、同じ社会の一員として生活しています。つまり、読み手の多様化が進んでおり、書き手が「きちんと伝わる文」を発信することが求められているということです。翻訳できるかどうかも、インプットになる「原文の明確さ」によります。「何が言いたいのか?それは果たして明瞭に表現できているのか?」、言語の種類に関わりなく大事にしたい点です。

執筆:花井 紀子
※コラムは執筆者の個人的見解であり、ITIDの公式見解を示すものではありません。

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