多事想論articles

ファシリテータの時代

 2010年が始まりました。世界同時不況以降、立ち直りつつある世の中ですが、まだまだ活力が完全に戻ったとは言い切れません。活力を戻す為には、社内はもとより、会社と会社もしくは国が一致協力して行かねばなりません。意欲、知見のある面々の叡智を結集する際に、必要とされるのが、ファシリテータです。
 このファシリテータという言葉、今や多くの方がご存知のことでしょう。では、初めて耳にしたのはいつ頃だったでしょうか。私もはっきりとは思い出せませんが、日本ファシリテーション協会が内閣府より特定非営利活動(NPO)法人の認証を受けたのが2004年ですので、多くの方は、おそらくその頃だったのでは無いでしょうか。ということは、その頃からファシリテータという役割の必要性と重要性が高まって来たとも言えます。ではなぜそのような役割の需要が高まってきたのでしょうか。私は、コミュニケーションの取り方と深い因果があると考えます。

 4年程前、拙宅に小学生の娘の友人が3人やってきました。皆、自分が持ってきたニンテンドーDS(2004年発売)に向かって会話も無く黙々とゲームを行なっていました。自分の小学生時代を考えるともちろんTVゲームなどもありませんでしたので、ずいぶん子供の遊び方も変わったものだと感じた次第です。この現象に代表されるように、子供同士のコミュニケーションの取り方がずいぶんと変わり、友人同士共同で何かを作り上げるというようなことをする機会が明らかに減って行ったと言えます。 子供の遊びに代表される真のコミュニケーションを取りにくくなるというこの傾向は、実は何も子供に限った事ではない気がします。これは、時代、環境の影響が大きいといえます。製造業でいえば、ITによる効率化と製品の多様化による専門分野特化設計を強いられることでコミュニケーションを取りたくても取りにくい状況に陥り易くなってしまったのです。会議の場面でも自分の範疇を出ない、凝り固まった意見を全く変えようとしないような人が、ごく少数派では無くなってきたため、ファシリテータという役割が、脚光を浴び始めたのではないでしょうか。

 時は流れてつい最近、また娘の友人が3人やってきました。今度は皆、Wiiで各自リモコンを持ってわいわいがやがやとゲームに興じていました。どちらもTVゲームに集中していたわけですが、後者には余り違和感がありませんでした。これは、前者はゲーム機とのコミュニケーションがあるものの、友人同士のコミュニケーションがほとんど無かった(図1)のに対し、後者は、時にはゲーム機を通しながらとはいえ、友人間のコミュニケーションがあったからに違いありません(図2)。 この状況を見た時、私はこの場面では、ゲーム機がファシリテータの役割を見事に果たしていると感じました。

ファシリテーション

 ファシリテータとは、議論に対して中立な立場を保ちながら、相互理解に向けて深い議論がなされ、合意形成へと導く人という意味です。ゲーム機は、中立的な立場で、ゲームに対する結果を示し、あるときはその結果を賞賛することで、ゲームに参加している人同士のコミュニケーションを活性化させ、予定調和を超える可能性を秘めたゲームの完了というゴールへ導いています。よって、ゲーム機はファシリテータとしての要件の多くを持ち合わせていると言えます。 しかし、全てではありません。ゲーム機と人間のファシリテーションの大きな違いは、ゲーム機に対してのインプットは限られたもの、必ず予想の範囲だけであるのに対して、人間のファシリテータは予想もしないインプットがあったとしても、ハンドリングするスキルが求められると言うことです。予想もしないインプットは時としてブレイクスルーに繋がる場合もありますが、会議自体をめちゃくちゃにしてしまう事もあるので、ファシリテータの手腕で成果が大きく変わることもありえます。

 2010年は冒頭でも記したとおり、日々一致協力が求められる年です。予想もしないことも起きるでしょうが、ファシリテーションスキルも駆使して、必ず良い年にしようではありませんか。

 "ニンテンドーDS "、"Wii"は、任天堂株式会社の登録商標です。

執筆:北山 厚
※コラムは執筆者の個人的見解であり、ITIDの公式見解を示すものではありません。

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