多事想論articles

やらないという責任

 「こんなの前例に無いぞ。これでいくら儲かるんだ。もしうまく行かなかったらどうするんだよ。役員にどう説明するんだ。」これは、某大手会社の中堅社員が、チャレンジングな計画を提出してきた際に、社員の直属の上司である部長がごく普通に発した言葉です。責任を取る立場でありながら、責任を取りたくないという価値観をお持ちのようです。そういうことあるな。そうそうあの人。と具体的な事象や顔が思い浮かんでしまったあなたは、立派な大企業(病)の会社に勤めていると思って頂いて良いでしょう。

 こういった保身の管理職が、ここ最近特に増えています。このような方のもう一つの特徴は、おいしそうな話が上から降ってくると、必ず我先にと群がって来て、暫くしてその話がうまく行かなくなった暁に、さっと気配を消してしまうことです。リスクが顕在化してくると、自分の立場を敢えて消し去って(忘れたふりをして)、コトを完全に他人ゴト化してしまい評論する側に回るという行動特性によって動きます。その結果、現場で一生懸命に働いている実担当者が責任を被るのです。

 これと似たような現象が、救急搬送の現場でも受け入れ拒否、たらい回しという形で発生しています。3月には36回受け入れを断られて3時間後に救急車が到着した病院で死亡するということが起きたことは未だ記憶に新しいのではないでしょうか。前述の例と同じように、重傷患者を受け入れるリスクを取りたくないという事なかれの病院が多いのかと思っていたところ、話をよく聞いてみると、助けたいけれども助けられない、止む無く拒否せざるを得ないという病院も相当数あったようです。もし、無理して受け入れた挙句、救急患者にもしものことがあったら、訴訟を起こされた挙句、医師生命を奪われかねないという現実も突きつけられているようです。インタビューに応じていた医師が、「自分は、医師としてこれからもたくさんの命を救いたいので、受け入れに対して余裕がない時に、無理をして救急患者を受け入れることは不可能だ。」と語っていたのが印象的でした。

 これら会社の例、救急搬送の二つの例は、やらない、否定するという手段を使うという点では同じ現象のように見えますが、やらないということで責任を回避するのか。やらないということを自分のコトとして捉え、責任を取るのかという点で本質は全く異なります。前例なき提案を否定した上司は、部下の思い、発想とは一切関係無く、自分のための否定を繰り返すでしょう。一方、無念の思いで患者を受け入れないという決断をした医師は、その患者が別な病院で助かったのなら胸をなでおろし、もし患者が助からなかったという報告を聞いたとしたら、割り切りの中にも、自責の念を持ちつつ、次の患者の治療に向かって行くのではないでしょうか。

 モノ・コトをやると判断したならばもちろん、やらないと判断したとしても、そこには必ず責任が存在します。それを肝に銘じることで心無い拒絶は随分と減り、世の中の活性化にもつながるのではないでしょうか。

執筆:北山 厚
※コラムは執筆者の個人的見解であり、ITIDの公式見解を示すものではありません。

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