多事想論articles

正当化と肯定

 前回のコラム「やらないという責任」で、病院が救急車の搬送受け入れ拒否の話をしました。それに対し、その病院は、患者を受け入れなかったことを正当化しているだけではないのかという意見を頂きました。私は正当化していたわけではないと考えますが、今回は、病院の真意を追究するのではなく、自ら行ったことに対して人間はどうとらえているのかということを、正当化に端を発して考えてみたいと思います。 

 正当化の意味を改めて調べてみました。正当化とは、道理にかなっていないものをこじつけて、かなっていると主張することです。自分が間違ったことをしたけど大事にしたくない、謝りたくないという場合、責められたくない、言い逃れたいという思いが正当化という行為につながります。こう考えると、正当化という行為はできればしたくないものであるということはお分かりでしょう。にもかかわらず、その時は、軽い気持ちでやってしまったことや、打算的にやってしまったことが、あとあと問題になりかけてきた時に正当化してしまうのです。 

 これに対し、自分が取った行為が、熟慮の上、最善のことと判断して行ったものであれば、ごまかし、言い訳はする必要はないので正当化の対象ではありません。しかし、どんな経緯からか非難されてしまうことはあるでしょう。その時、「これは正しい行為である。」と主張することがあります。これは、正当化ではなく、「自己を肯定している」と言えます。 

 自らが取った行為に対して、評論、非難にさらされることもあります。この場合、相手は当人の価値基準で評論、非難しているわけですから、対象の行為が正当化なのか肯定なのかなど考えてもいません。評論者、非難者の言動は、世の中のというよりは、自分の価値基準に合っていないというところにのみ立脚しています。もしかすると、自信を持って自己を肯定出来ていることであっても、どこまで行っても理解を得られないかもしれません。重箱の隅をつつかれることもあるでしょうし、かえって「反省がない。」などの評価を受け、事態を悪化させたりもすることがあります。そういった話はよく耳にするものです。しかし、この時に、本当に肯定できることであれば、主張をぶらすことなく、自分をごまかすことなく前に進んで欲しいものです。もし、肯定出来ていたものの考慮が足りていないところがあったのであれば潔く、不足していた点があったと釈明して欲しいと考えます。この様な、自らを肯定できる人が、政治の世界でも、ビジネスの世界でも、教育の世界でも、老若男女、一人でも増えてくれば、自分だけ良ければよいというような正当化文化は薄れていくのではないでしょうか、

執筆:北山 厚
※コラムは執筆者の個人的見解であり、ITIDの公式見解を示すものではありません。

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