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2016年ノーベル賞に思う

 今年もノーベル賞の発表が終わり、ノーベルの命日である12月10日に恒例の授賞式が行われます。ここ何年か日本人の受賞が続いていますが、今年も生理学・医学賞を大隅良典氏が受賞されたことは喜ばしく、記憶に新しいところだと思います。一方で、村上春樹氏が文学賞の有力候補に挙げられながら、受賞を逃しているのも半ば恒例行事のようになった感があります。その文学賞は、今年は歌手のボブ・ディラン氏が受賞しました。この受賞は、ちょっと意外と思われた方も多いかもしれません。なぜなら、ボブ・ディラン氏は、グラミー賞などを多数受賞し、75歳となった今も音楽活動を続けている音楽界の重鎮だからです。しかし、実は文学賞には2012年ごろから候補にリストアップされていたようです。

 文学賞と言えば、職業はいわゆる作家で、書籍を出版している人が受賞の対象であり、音楽家は、他の職業、例えば弁護士や科学者と同様に文学賞の対象外であると、私は勝手に思い込んでいた節があります。作詞家といえば文字を綴って、歌詞をつくります。そこにはストーリーがあります。そうなると歌詞は詩であり、確かに文学だと今更ながら改めて気づかされました。

 ノーベル賞各賞の受賞対象範囲が、どの程度まで定義されているのかは定かではありませんが、区分が曖昧だったり、区分が定義されていても、図のように、Aが担当する部分とBが担当する部分を合わせても、全体が完結しないというような場面が、日常でも多々存在します。例えばカレーを作る人と、ご飯を炊く人がいても、皿を用意する人がいなければ完結しないというものです。

 カレーの準備の様な単純なケースであれば、気がついた方が皿を用意すれば事足りるのですが、単純ではない業務、生活の中では、抜けがあることに気付けなかったり、双方が自分の担当範囲ではないと言う認識を持ってしまうことがあります。たとえば、クレーム対応担当が事項毎に決まっていて、それぞれ単独の事項では問題ないにもかかわらず、組み合わせで問題が起こってしまうこともあります。その様な場合には、自分は担当業務を全うしていたとしても、全体としては完結しないと言う悲劇が起こります。いわゆるたらい回しと言う現象もこれです。

 ボブ・ディラン氏のような偉業達成とは行かないまでも、自分の枠を決めてしまったり、担当はここまでとかたくなな線引きをしたりせずに、人と人の隙間を埋めたり、繋げたりすることが大切であると思います。 そういうことが出来る人が、今の複雑化した世の中では、益々求められるでしょう。そしてそれらは心配しなくても、必ず自分にもプラスになって帰ってくるはずです。

執筆:北山 厚
※コラムは執筆者の個人的見解であり、ITIDの公式見解を示すものではありません。

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