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提供するべき品質

 あなたの周りにいるお節介な人というと誰か思い浮かぶでしょうか。近所付き合いという言葉が、特に都会では薄れてきているので、お節介をされることなどなくなってしまっているかもしれませんが、望んでいない余計なことをしてくれる人です。では、もう一つ、あなたの周りに世話好きな人、思い浮かびますか。こちらは、先を見て、気を効かせて助けてくれるような人で、ぜひとも近くにいて欲しい人です。

 お節介な人、世話好きな人、どちらも思い浮かばない人もいるかもしれませんが、お節介な人と世話好きな人との違いはなんでしょうか。それは、その人がやってくれることを望んでいるか否かです。たとえ同じことをやったとしても相手が望んでいなければお節介となり、望んでいたり、思いがけないことであったりすればありがたがられます。また、ある時にはありがたがられたにもかかわらず、しばらく時間が経ってから同じことすると、今度は余計なお世話となってしまうこともあります。例えば、恋人が出来たばかりでワクワクの人に、雰囲気が盛り上がる音楽を紹介したとしたら、喜ばれる可能性は非常に高いですね。しかし、失恋したての人に元気が出るようにと同じような音楽を紹介したとしたら間違いなく傷に塩を塗る気かと反感を買うでしょう。さらには、多少であればありがたいのですが、ある限度を超えると迷惑となってしまうこともあります。この様に、望まれていることを適量に届けることが最も良い届け方であることはお分かり頂けているはずなのですが、お世話に限らず、いざ提供する側になると、深い洞察なく自分の価値判断によって提供してしまうということが意外と多いことに気づくのではないでしょうか。

 ご近所だけでなく、世の中、特に海外を見てみると、同様の現象は多々見受けられます。代表的なのが、新興国でよく言われている(いた)、過剰品質です。日本の製品は壊れにくかったり、高性能だったりするのですが、その国、地域ではそこまでの品質を要求していないので、提供側が、価値が高いと思って作りこんだものの、顧客には価値として認識されない状況が生まれます。これは製品に限ったことではなく、ITシステム、サービスなど、すべてのことに当てはまるミスマッチです。一方、どんな使われ方をするかわからないため、耐久性を先進国よりも高く設定する必要があるケースなども見受けられます。品質、性能が良ければ売れるという時代から、国内市場の縮小化に伴って、多様な価値が存在する海外諸国を市場として捉えていかねばならなくなった時代、日本企業にとっては、丁度良い品質、コストのバランスが求められてきています。いずれのケースでも言えることは、今までの経験の延長線上で考えていても突破はできないということです。

 とはいえ、突破できずに手をこまねいているだけではない例も多々見受けられます。居酒屋チェーン、ワタミが中国に進出した時には、現地の文化に合わせ日本的な店の運営を控えていたようですが、店がうまく回らなくなったということがありました。渡邉会長はここで日本的経営、おもてなしの心を持ち込んだそうです。それは、その土地においては、経験したことのない上等な品質で、決して必要のない過剰な品質ではなかったのでしょう。従業員の方々は知るまでは望んでいなかったかものにもかかわらず、導入後は非常にうまく回り出し、店の売上も従業員満足度も大きく上がったそうです。価値観が多様化した今の時代。モノでも、サービスでも、その時々で受け手が受け入れられるレベル・品質を見極める力が、企業内では高く求められ、市場からは厳しく問われているのは間違いありません。

執筆:北山 厚
※コラムは執筆者の個人的見解であり、ITIDの公式見解を示すものではありません。

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